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【アーシュラ・オッペンスin 東京/オッペンスに聞く1】【コンクール、音楽観、人生論】

・貴方は1969年のブゾーニ国際コンクールで1位を獲得されたのですが、その後再び他のコンクールを受けることは考えられましたか?・ コンクールは貴方のキャリアに役に立ちましたか?アメリカ国内のコンクールで既に優勝経験はあり、その結果少しずつ仕事が入ってきていました。別段コンクールと言う事は考えていませんでした。その頃ジュリアードでロジーナ・レヴィンの元で研鑽を積んでいましたから、彼女の勧めに従い参加してみました。特に自分からコンクールにと言う考えは全くありませんでした。アメリカでは大変評価の高いヤングアーティストに優勝し、既にある程度キャリアが始まっていたので別に必要感じなかったのです。最初随分考えてしまいましたが、イタリアの長閑な環境と言うことを参加したことのある学生仲間から聞いたので、旅行もできるし、美味しいものも食べられるしと言う軽いノリでした。優勝とかそういう事は全く考えないで、なんだか冒険というつもりでした。私は昔から「冒険」が大好きだったのです。新しいことをやってみたい、挑戦したい。そういう感じでした。偶然、優勝してしまい、困ったことが起きてしまったのです。

アメリカのある地方都市で演奏会が優勝の4日後にあり、飛んで帰らなければいけませんでした。ミラノで大手音楽事務所が是非会いたい。契約したいと連絡が来ました。私は当然受けた仕事はキャンセルしたら絶対いけない、約束事だからと思い断りました。即帰国して小さな街の小さなコンサートで演奏をし終え、ニューヨークに帰り、音楽事務所とのアポを断った事を言うと、恩師のみならず、皆んなに呆れられました。「大手と契約すれば、そこからあなたの国際的なキャリアが始まるのよ。そんなアメリカの田舎なんて、何をやっているの?あなたはコンサートピアニストになるんじゃなかったの?」と言われました。

ワンおばちゃんは続けて問いかけました「その事を後悔していますか?」オッペンス曰く「not really! 何故ならば、既に、私にはやりたいことがあったからです。何をしたいか。何を欲しているか。それを知っていたからです。私は既に現代音楽を取り挙げようと考えていて、その為にグループまで作り、活動を始めていました。あっちゃこっちゃにコンサートの為に飛び回るのも一つの人生ですが、じっくり一つのところに腰を据えてやりたい事をやり続けるのも又一つの選択肢です。

こう思わなければジェフスキとの出会いも無く、「不屈の民」という曲も存在せず、貴方に会う事もなく、この曲が書かれてから50年目で戦後80周年の記念すべき今、私が東京に呼ばれて「不屈の民」を演奏する機会もなかってしょう。これが私の人生の選択であり 私なのです」コンクールに関してオッペンスは更に付け加えた。「コンクールに振り回されている人を多く見受けます。軽いノリとは言いませんがギャンブルに興じているぐらいの気持ちになれないのならそんなの「辞めちまえ」と自分に言う事です。ただの運試しです。残念なことにコンクールに成功するために色々と教えてくれたり、準備してくれる先生方は大勢います。だけどその後、何をすべきかそれをどう生かすかと言うことを教えてくれる人は誰もいませんでした。コンクール後が大切なのです。何故ならば、そこからが自分の人生だからです。私はたまたまやりたい事を持っていました。一番大切な事は、コンクールでも何でもない。何をやりたいか何が欲しいのかと言うその一点です。そこに導いてくれるのが本当の教育者です。

ロジーナ・レヴィンは、私が「私である。私が私であり続ける事」を確立できるよう導いてくれました。“こうしなさい”と言う様な事を言われたことは一度もありません。その後彼女はチャイコフスキーコンクールに出る事を提案しました。私はこれをやりたいからと断りました。和かに微笑み、それ以上は勧めませんでした。コンクールは自分自身が“コンクールという場”をどの様に自分に役立てるかという気持ちで望めないなら、意味がなく害すらあります。自分の人生を自分でコントロール出来なくなるからです。人は色々間違いを犯しますが、実際長い人生どれが間違いでどれが正しいかなんて未だってまではっきりと言える訳ではありません。未だやりたい事も結構たくさんあるのでそこまで考えていたら時間がなくなっちゃって………81歳になったら兎に角転ばないように用心。それが一番大切……」