この様な事を書いていいのか如何か…………….朝起きて「一体私は何をしているのか?….これでいいのか?
ガザで起こっていること。ウクライナ、そしてロシアのお仲間の新枢軸国の国々のやっていること。
なのに、こちらはショパン・コンクールがどうのこうの、年末の第九……
結構ベートーヴェンもショパンも「もの申す」熱い心の持ち主であったと推察される。
音楽の根幹の処にその「気持ち」が其々の人の形で存在するはずであるのに…….ストリーミングされてくる演奏を聴きながら「見たくないない事」「知りたくない事」に蓋をして心地よい音楽を聴くことができる。
時々考えることがある。我々が聞きかじることの出来るショパンの実像というか人と成り、がどの程度信憑性があるのか如何かわからないが、彼が今この世に生きていたら、彼はこのコンクールを喜んだのだろうか?
なんだか一番ショパンらしくないような気がしてしまった。
ベートーヴェンの時代から教育パパはいた。クララ・シューマンの父、チェルニーの父やリストの父親の事は記録に残っている。みんなコンクールでは無いけれども、競いあっていた。でもこれだけ「両手でコンクール」ということが昔からあったのか如何か…….空気は正確に記録に残せないもの
以前MCSではロンドンではよくブロードウッドの家でサロンコンサートをしていた。1837年ショパンが初めて来英したときに、プレイエルに連れられ、そこで英国滞在中に借りるピアノを選定をしていた時、急遽 ブロードウッドの提案でimpromptuなサロンコンサートとなったところだ。その心地よいintimateな空間で聴くショパンを今懐かしく思い出す。
おそらくそういうところでは、音楽も現実に今起こってることも身近な事として人間が、もっと自由に「その人なりに」いることができたのではないかと勝手に想像している。
ショパンは遠くなりにけり
ワンおばちゃん