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【何故今、広島?/その4:広島&福知山を結ぶ線

福知山で蘇る1日音楽喫茶ムシカ!ムシカのピアノの謎】何故広島のムシカのピアノが福知山へと言う問題はさて置き、当時、福知山のサンホテルには既にグランド・ピアノのが3台、チェンバロも一台。「もう一台お願いできないでしょうか」「何をおっしゃる。もう場所がありません。今だって苦労しているのです。ダメです。ダメ」サントリー・ホールと同じ永田設計による音響設計で天井が9メートル前後の音楽ホールなのだが、ホテルの中にあるので、宴会などで使用される頻度の方が高いこともあって、その都度ピアノを動かすのにホテルの方々も大変な思いをされている。 諦めていたところホールがあるホテルの経営者の村上社長から突然電話があり、同社が建設中の福知山城の三の丸の裁判所の隣にビルの建設を止めて、設計変更してピアノを入れてくれることになった。半信半期であったが、村上社長は「この地方では、昔は8月6日は登校日で、広島の原爆の話を学校で教えていました。その時みんなで歌った原爆の歌、今でも私はと言いながら、最初の数小節を歌われた」 このムシカのピアノ、どれだけ大勢の人たちが広島で弾いてきたのだろうか。最後の外国人は、英国の著名ピアニスト、ベンジャミン・フリスだった。彼は言った「明子さんのピアノといい、ムシカのピアノといい、楽器だけをとったら騒ぐ必要は無いが、その背負ってきた歴史と関わってきた人、皆んなの思いが集積した心の産物だと考えれば、その想いを大切にするのが、“音楽の道“であり役目ではないだろうか」 ワンおばちゃんはその“想い”の番人でありたい。広島で多くの友を亡くした亡父の遺言でもあり、ワンおばちゃんに与えられた神からの義務であるとずっと自らに命じてきた。