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【エマニュイル・イワノフと不屈の民その2/全くの余談】コンクールについて

ピアノ愛好家の間で、もう今はショパンコンクール一色。
特に日本ではもうピアノコンクールと言えば、ショパンコンクール。
それから比べれば、何でここでブゾーニ国際の話なんてと言われてしまうが……
ジェフスキーの不屈の民の委嘱者/初演者アーシュラ•オッペンスとエマニュイル・イワノフには奇しくも二人ともブゾーニ国際の1位。彼女は1969年、そしてその50年後の2019年にイワノフが1位であった。後ベンジャミン・フリスやイーゴル・カーメンツも1980年代後期に1位は取りそびれたものの最高位や2位3位となるも、
それから何十年も経って、参加者や審査員の印象に残り続け、語り草になっている人たち。
今日の話は、この人たちがどの様な気持ちでコンクールに向かって行ってかのお話です。


一人づつ取り上げていきたいと思います。
アーシュラ・オッペンスの場合は、そもそも彼女自体にコンクールに対する興味が全くなく故に、知識もなかったところにジュリアード音楽院在学中に恩師ロジーナ・レヴィーンが受ける様にと勧められ「イタリアにも行けるし、素敵なホリデイになりそう」と軽い気持ちで受けることになり、曲の準備の側ら、美味しいもののリサーチや観光名所の下調べ等に余念がなかったそうだ。要はlet’s enjoy…..のノリであったそうだ。
ワンおばちゃんが聞いてみました「ブゾーニがイタリアではなくて例えばアメリカ国内だったらどうしましたか?」
「うーん、参加しなかったかも」要は彼女に言わせると、なんで音楽で競い合わなきゃいけないの?如何して誰かが1位、2位って勝手に決められてそれを受け入れなきゃいけないの?そんなもん絶対正しい何て、反対にそんなものを受け入れてしまうのおかしいわ!と思っていたそうで、それを恩師に言ったら「行ったことがないところに行く機会は貴重だから…..次イタリアにいつ行けるかわからないわよ」と言われてその気になったそうだ。


「あなたは優勝すると思いましたか?」「うーん気がついたら優勝という事になっていたのよ。兎に角イタリアは楽しかった。優勝はたまたま他に優勝候補のロシア人が参加しなかったからだと思います。だからこんな結果信用してないのよね、私」
コンクールは役に立ちましたか?との問いに「まっ遠い外国に行けましたからよかったというところですが、その後いろいろ仕事をいただいたのですが、既にアメリカ国内であらかじめ受けていた仕事が多数あったので、それらを受けることはしませんでした。故にヨーロッパの大手事務所も待ち構えていたのですが。コンクール前に決まっていた演奏会をこなす為に数日は、アメリカに戻ってきてしまいました。これには恩師をはじめほとんどの知り合いがなんと言う馬鹿なことを!ばか、ばか、ばかと言われました。私はコンクールで人生が変わるなんて思いたくない。そう思っていたのです。
そういう性格と考えだから、ジェフスキーの様な作曲家/演奏家に巡り合い、「不屈の民」に行き着けたんでしょう。
コンクールの話なんて…..はるか遠い昔の小さな事と言う感じに見受けられました。


「アメリカに帰ってきたら、レヴィーン先生が、“貴方何やってんの何故帰って来たの。あっちでいただいたコンサートや音楽事務所との契約とか………..仕方がないわね貴方って人は…..でもいいわ!次はチャイコフスキーコンクールがあるから……..」オッペンスはキッパリ「先生私にはやりたいことがあるので….」とコンクールには再び参加しなかったそうだ。レヴィーン先生はあの手この手を考えたがオッペンスがコンクールに再び参加することはなかった。
後にイワノフを魅了し虜にしたジェフスキーの名曲「不屈の民」はこのオッペンスによって世に送り出された言っても過言ではない。もしオッペンスがブゾーニ優勝をきっかけにチャイコフスキーとかそっちの道に進んでいたならばワンおばちゃんにとっては恐らく不屈の民もなくイワノフとの出会いもなかっただろう。
コンクールに翻弄されなかった一人の根っからの偉大な芸術家に再びシャーッポーと乾杯🥂🥂🥂
明日はイワノフの場合…..