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アビー・サイモンとの会話

月1回のアビー・サイモン(1920- )への電話がここ3年ぐらいの習慣になっている。

昨年夏、私が入院した時に2ヶ月抜けてしまったら、彼の方がパニックしたらしい。反対にサイモン氏が出ない事も数カ月あって、そのときはこっちが変な事を想像してしまった。

今回はセクエラ・コスタ氏が亡くなった事を伝える事がメーンのつもりであった。「亡くなられました、、、、」「ああああ若いのに、、、」「いやー、でも89歳ですよ」「それは若いのだ」「いやーでも、、、」「勿体ない、、、、」「バドゥラ=スコダには言ったのかい」「はい」「スコダも頑張ってるね。まあまだ若いから」「いやー、でも92歳ですよ」「そういうのは若いのだ、僕からすれば。何てったって君なんかベビーだからね。この歳になると、年長でアドヴァイスをしてくれる人がいないんだ。昔が懐かしいよ。注意してくれる人や教えてくれる人がみな僕より若いなんて、、、、。だいたい僕の息子の態度がいけない。僕は今でもスイスからテキサスに教えに行くため、最低2ヶ月に1回は大西洋を横断しているんだ。ところがだよ、息子は僕からパスポートを取り上げようとしたんだ!けしからん!」「息子さんだって70歳代でしょ」「だったら僕の事わかってくれなきゃ」

「最近ね、妙に(デイヴィッド・)セパートン先生の事を思い出すんだ。僕の一番最初の先生なんだ。彼がね、カーティスに行ってヨーゼフ・ホフマン門下になれ、と道をつけてくれたんだ。でも当時はカーティス=ホフマンっていう感じだったからね。なんせホフマン門下はごまんといるんだ。当時カーティスにいてそこそこ弾く人はみなホフマン門下なんだ。

でもね、(レオポルド・)ゴドフスキーに学べた事は本当に幸運だったんだ。これはもちろんセパートンのおかげなんだ、今から考えるとね(※セパートンはゴドフスキーの娘と結婚していた)。教えるのが上手いっていうのはね、必ずしも良い教師かどうか判らないって事だよ」「というと?」「ゴドフスキーは本当は教えるのが好きだったかどうか判らないね。彼のそばにいて、彼から何か学ぶというより盗み取ると言うか、吸収しようと言う気持ちでいる人間じゃないとダメなんだ。実際、生涯を通じて後進の指導に従事はしていたが、教えようと言うスタンスじゃなかったね。生徒とか学生とか言う感覚がなかったんだゴドフスキーには。fellow musician(音楽家仲間)と言う接し方だった。」

セパートンは素晴らしい教師だった。彼は判っていて、「いつ、どの先生に学ぶのが良いか」と言う事を熟知していた。ピアノを学ぶ者にとって、その時その時に学ばなければいけない事が違うんだ。ずうっと一人の先生なんていうのは大変危険なんだ。良い時期に送り出して次の先生に繋ぐ。そしてまたタイミングを見計らって次の段階へ。ゴドフスキーから何を学び取るかを判らないうちはおそらくダメだったんだろうね。本当に僕はラッキーだったよ。ジュリアス・カッチェンやシューラ・チェルカスキーとかと一緒に学べて、、、。

最近の学生は「さあ、お口をアーンと開けて」と言う感じのベビーフードの広告みたいな感じのレッスンに慣れてるだろう?教える方も「教えるの大好き」と言うタイプの教え魔が結構いるしね。世の中変わっちゃったねー。いやあ、そう言う意味でも僕は本当にラッキー。

セクエラ・コスタはお気の毒だよ。こんなに早く逝っちゃって。まだ弾けたのに。彼は、色々とやりすぎたんだね。コンクールや審査員とかね。不思議だよね。彼はヨーロッパからアメリカへ。セパートン門下の僕は、チェルカスキーもカッチェンも米国の水が合わなくなってね、みなヨーロッパに来てしまった。この歳になっても仕事で行くけど、ヨーロッパで人生を終えたいね。あの当時のカーティスにはね”cream of the cream of America is more Europe than Europe”と言う感があってね。卒業してしばらくしたらもう耐えられなくなっちゃったんだ。

そりゃ家族は反対したさ。でもね、パリに移り住み、その後スイスに引っ越したけど、ヨーロッパにおけるan American in Parisと言う当時のあの空気が新鮮で、その時のワクワク感は言葉では言い尽くせない。そのワクワク感がカッチェンの演奏にも表れていたよね。ああ彼があんなに早く逝くとはね」

今夜はもう遅いので続きはまた。おばちゃんもそう若くはないので、、、。