ラドゥ・ルプーが引退するというニュース、4、5日前に速報でみまして、ああやっぱり、という思いで軽く流し読みしたあと、しばらくそのままにしてありました。(このブログの画像はイメージです。)
いま、あちこちのニュースサイトなどを見てきまして、納得しましたというかなんというか、神妙な気持ちでおります。
ルプーというピアニストの事を初めて認識したのは自分が中学生のとき。デッカのブラームスは高校生、大学生の時に何回も何回も聴きました。それからN響とのブラームス第1番だったと思うのですが、それはビデオに録画して、これも何度も繰り返し見ました。
背もたれ付きのパイプ椅子かな?に座って、ぐっと背中を背もたれに押し付けながらの演奏だったと記憶していて、重厚でありつつも軽やかだった、そんなイメージを持っています。今は昔。
しかしながら実演に接したことは、実は一回しかありません。武蔵野市民文化会館の小ホールでのリサイタル。ドビュッシーその他。静かな緊張感がホールを満たしていて、これはいい演奏会だな、と思いながら聴いていました。偉そうに申し訳ありません。
その時は(いつもそうなのでしょうが)楽器にも厳しかったと記憶しています。ここをこうしてほしい、といったことを事細かに調律師の方に伝えていました。すごいことだなと思います。しかし笑うと(´(ェ)`)のように優しい顔でした。
実はそのときも既に、本当に来日するかどうかわからない、と言われていました。昨年もあるエゲレス人ピアニストから「又聞きなんだけどね、ルプーはそろそろ引退するかもしれない、周囲に引退をほのめかしているようだ」と言われたときも、大きな衝撃はありませんでした。
こうしてはやばやと引退宣言をする人は、間違ってるかもしれませんけれど、たぶん完璧主義者なんだろうなと思います。リュビモフもそうなのでしょうけれど、納得するような演奏が出来なくなることへの苛立ち。自分自身が納得できないのならもうコンサートホールでは弾かない。
生き様ですよね。これは他人がどうこう口を挟めることではありませんしね。お疲れさまでした、今までありがとうございました、と申し上げるべきなのでしょう。
もちろん、これとは全く反対に、より高齢でも活発にコンサート活動をする人もいます。歴史を背負っているオーラ、その人の歩み、すなわちバックグラウンドのストーリーなんかにも人は思いを馳せます。ピアノの演奏だけではなく、その人自身の歴史を聴くのです。そこに人の心は大きく動かされ、揺さぶられるのです。老いてなお鍵盤に向かうその姿はあまりにも厳しい静謐さに満ちている。
そう、例えばバドゥラ=スコダ。今年10月22日(火祝)、東京に奇跡の再来日を果たします。
歴史はふたたび語りはじめる。ピアニストと、ベーゼンドルファーと、ウィーンの洒脱。
・・・・ババーン!!!
何やねんこの効果音。