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業界人突撃インタビュー第7弾、ミュージックショップ グッディーズ経営大西隆氏【前半】

大西隆氏のことを知っているという関東のクラシック音楽ファンの方は、控えめに言って「かなり多い」と思う。なに、知らない?

よかろう、それではこの上のお写真のお顔を、まじまじと、もう一度だけ眺めてみてほしい。

うむむ、どこかで、見た・・・か?と思ったらそれは間違いではない。つまり、コンサートゴーアー(コンサートによく行く人)であれば、コンサートホールのロビーでかなり、いや、しばしばお目にかかっているのではないか?

都内や近郊のコンサートホールのロビーで、おや、CDの即売をやっているね・・・その即席販売所のテーブルを仕切っていることが多いのがこの大西氏である。創英角ポップ体で打ち出された販促のポップもトレードマークでありましょう。あーあーあー!!そうかあの人ですね!!

そうですそうです、そうなんですよ。ハハハ!よく買ってるよ!買ってますよぉ!そんなお声があちこちから聞こえて来て私も嬉しい。

大西氏はミュージックショップGoodies(グッディーズ)というお名前のお店を経営して(今は実店舗はありませんが)もう40年近くになろうかという超大ベテランなのです。

日本のレコードシーンを長く見つめて来たのみならず、コンサートの場を支える縁の下の力持ちなのです。大西氏抜きでは、関東のクラシック音楽のコンサートとか、サイン会とか、CDのビニールをきれいに破る方法とか、そういうのは語れないのである!!おおおおおっ!!!!

・・・・んー、ちょっと誇張したかもしれませんが、業界の大先輩である大西さんのお話を伺っているうち私は自然と頭を垂れる、そういう心持ちにもなったものです。

レコードショップ経営、そしてネット通販、そして即売、そして独自のリマスタリング音源発売など、いろいろな顔を持つ大西氏のインタビューを、ワクワクしながらお読み下さい。

・ ・ ・ ・ ・ 

生い立ち、クラシック音楽との出会いなど

クラシック音楽とのはじめての接点はなんだったのでしょうか?

――小学校の時に親父がカーステレオを入れたんですよ。まだカセットじゃなくてカートリッジですね(8トラック)。フリッツ・ライナー&シカゴ響の「運命」と「新世界」を親父が買ってきたんで、車に乗るとそればっかりかかっていた。それが最初です。ちなみに私は1955年生まれです。

同じ頃にベンチャーズに目覚めまして、エレキサウンド、加山雄三とか怪獣映画の音楽とかを聴きながら洋楽も聴くようになって、要するになんでもかんでも聴いていた、という感じです。小学生からベンチャーズの影響でギターを弾いていて6年生のお別れ会では寺内タケシの「運命」を弾いたりしてました。そんなクラシックに傾倒していたわけではありませんね。

●まさかの寺内タケシとブルージーンズ!私も中学生の時にライブを聞いたことがあります。1992年ぐらいだったかな。息子さんもヴォーカルで出てました。

クラシックをちゃんと多く聴くようになったのは70年代になってからです。ディープ・パープルが1969年にロイヤル・フィルと共演したアルバム(ジョン・ロードがマルコム・アーノルドと協力して作った)、これを聴いてからですね。まあプログレの時代ですよ。いろんなジャンルとロックが融合していくみたいなね。これを聴いてはまったんですよ、当時。

クラシックの協奏曲の形式なのでジョン・ロードが全部作れたわけはない、元ネタとかがあるんじゃないかと探しているうちにクラシックを聴こうかという感じになってきて、それで最初に買ったのがコンヴィチュニーのベートーヴェンです。ブルックナーやらマーラーやらもそのころから聴いてましたね。万博でバーンスタインが9番やってましたけど、たぶんマーラーブームはその後、72~3年ぐらいからですかね。私はもうちょっと前から。

うふふ。ブームを先取り・・・・。その頃から音楽を仕事にしようとかそういうのお気持ちがありましたでしょうか。

――高校の頃にはできれば音楽を仕事にしたいなと思っていたかな、と。大学に入って最初はロックをやろう意気込んで行ったんですけど、そこは雰囲気がよろしくなくて、なぜか学校の聖歌隊に入ったんです。それが大きかったかな。

ルネサンス音楽、ビクトリアやパレストリーナなんかに触れるようになって、クリスチャンではないんですけど、いろいろ歌いました。授業にはほとんど行かず聖歌隊とバイトに明け暮れてました。あっ、バイトっていうのはコンサートサービスですね。

あの、都内のホールの前でちらしを配布しているコンサートサービスですね!この話は私大好きなんですよ。お願いします。

――コンサートサービスの黎明期ですよね。あのころは(佐藤)社長が自分でまだ撒いていました。ある時、ポップス系の自分の関わっているコンサートのチラシを撒きに行ったときに会場の前でお会いして「バイトやってみないか」という話になって、それがきっかけで。

ほおおおお。何度聞いてもわくわくしますね。

――そう、まだ社長がほぼ一人、あとアルバイトでね。大学を出る78年までずっと手伝ってました。昼からチラシを組んで、会場に行って撒いて、そのままコンサートを聴いて帰りました。もちろんチケットを買ってね。当時都内のオケほぼ定期会員・学生券でしたしね。

よくお金が持ちましたね!

――学生券はだいたい一回当たり1000円以下で、都響のファミリー・コンサートなんかは300円でしたから、バイト代だけでコンサートも行けるし、レコードも買えたんです。バイトだから会場に行く電車代もかかりませんしね・・・。大学時代の生活がそんなんでした。

大手ミュージックショップの新星堂に就職、5年で独立

コンサート三昧。それで大学を出て新星堂に就職、と。

――レコードメーカーに入りたいなとも思いましたけど、当時は倍率めちゃくちゃすごくて、RCAとか2人の枠に2000人とか3000人とか来てたので、普通に入るのはとても無理でした。なので小売でもいいかな、と。その頃から将来は店をやりたいなと思っていましたので。お客さんに音楽を届ける、という事を仕事にしてもいいかなと。それで新星堂に入ったんですよ。

で、小売をやりたかったんですけど、なぜか卸(おろし)に配属されて。5年やりましたね。卸の営業、ルートセールスです。東京近郊に独立したお店があちこちにあって、そこをまわるんです。やがて自分が開くようになるようなお店ですね。新星堂時代は最後まで売り場に立ったことはなかったです。

独立にあたって会社から引き止めとかはなかったんですか。

――新星堂は当時社員の独立を推奨していたんですよ。系列の店舗を増やすっていうことで。

●あーなるほど、販売拠点を増やすってことですかね。近所の家電屋さん、ナショナルショップ、みたいな。ネットショップも当然ありませんもんね。

――ですね。

新星堂チェーンの店で突然廃業する所があって、オーナーと話をして居抜きで引き継ぐことになりました。これが1983年です。もともとそこでお店をやっていた方っていうのが、それほど「音楽がすべて」という方ではなかったんですよね。単に思ったほど売上が伸びなかったから他のことをやろうかと思ったみたいなんです。立地的に不利とかいうのでもなく。

営業担当で知っていた店なので、これなら贅沢しなければやっていけるんじゃないかと。話をもらってから1ヶ月で急遽開店、っていう感じです。

はやっ。それが東村山でしたか。

――いえいえ下井草でした。下井草商店街の端っこです。駅の南側ですね。半年ぐらいは前の店名のままで、それからちょっとだけ改装して、グッディーズっていう名前にしました。

●西武新宿線ですね。ここって中野区かと思ったら杉並区なんですね。「グッディーズ」というお店の名前の由来をこれまでお聞きした事がありませんでした。ぜひお教え下さい。

――当時EPOっていう女性のシンガーソングライターがいて、この子が80年に20歳でデビューしましてね。ユーミンの後の世代で、すごく才能がある人です。一発で好きになったんですよね。で、彼女のセカンド・アルバムのタイトルが「グッディーズ」だったんですよ。当時もう何回も聴きましたね。

なんと、そうだったのですか!!

――あと「オールディーズ・バット・グッディーズ」(古いけど良い音楽)、という言葉もありますから、それも引っ掛けて、自分でいい音楽を他の人達に広めたい、そういう店にしたい、という意味で。当時は接客でいろいろお客さんと話をする時代でしたから、話をしていい音楽を薦めていきたい、という気持ちを込めたんです。

●なるほどー!それは面白い。知らなかった。グッディーズさっそくきいてみます。

――結局下井草には10年いましたね。下井草時代が一番濃かったなと思っています。そういう時代だったということもありますし、土地もすごいところでした。杉並ですからいろんな一癖二癖いっぱいある人たちがいましてね。こんなに変なのが集まるかっていう。

ここで出会った人たち、ここで教えてもらったもの、それが私の音楽人生の今でも中心になっていると思います。フリー・インプロビゼーションのデレク・ベイリーとか、リチャード・ハンプソン、ピーター・ハミルに出会ったのもこの時期です。アニメのマクロスを作った会社もありましたし、そういう人たちもグッディーズに出入りしてくれていましたね。

「なにも対策しなければ万引だらけです」

経営危機はありましたか。

――いやもうずっとですよ。独立に際して当然金はないんで、親父に保証人にはなってもらいましたけれど、金は出さないって言われたんですよ。「銀行から借りて返せないような商売はするな」と。それですべて銀行からの借金で始めました。全額借金なので月々の返済は大変で。

始めは本当にしんどかったですけど、だんだん軌道に乗ってきてなんとかなりました。レコードだけじゃなくて、オーディオも好きだったのでAVショップみたいなのものもやってました。ビクターと契約してビクターショップになって、当時の大型テレビを置いて、レーザーディスクやVHDとかを店の中でかけるんです。

●レーザーディスク・・・・。懐かしすぎる。ルネ・コロのトリスタンとか、大学生の時大学の図書館で観た記憶があります。半分寝ながら。当時はワーグナーが全然わからなくてね・・・。いや、いまでもワグネリアンでは全くないんですけど

――83年はCDが店頭に並び始めた時だったんですけど、ちょうどそのころ店を引き継いだんですよね。最初棚に並んでいたCDは20枚ぐらいでした。

●うっはーたったの20枚。メインはレコードとカセットか・・・・。

――映像についてはまだベータとVHSでガタガタやってた時期ですよね。どっちが勝つか、みたいな。だから映像商品は両方入れてました。14800円でしたよ、映画1本。

げっ、そんなしましたか!!でもそう言われたらそうだった気もします。いまサブスクの時代からは想像がつかない値段ですね。

――家で映画が見れるっていうのは、当時は大変なことだったんですよ。当時の初任給は10万ぐらいだったと思いますよね。10万円代の前半、みたいな。それでも3000円のレコードやCDを買って、14800円の映画を買ってたんですよね。レーザーディスクも7800円でしたからね。

レーザーディスクの方が安かったのか・・・(絶句)。てか10万ぐらいで本当にまじでよく買おうと思いますよね。娯楽とかは今よりずっと少なかったのかも知れませんけれど。

――ともかく、10年で借金を返す目処も立ちまして、それで下井草を引き払うことにしたんですよね。その後少し間をあけて95年に久米川にグッディーズを出す。この頃世の中はCDバブルの時代でして、ミリオンセラーがバンバン出ました。

●「帰ってきた酔っ払い」とかね。あっ、これは67年でした古すぎてすいません。

――CDの何がよかったかというと、音が良いとかみなさんおっしゃいますけど、実際はそんなに関係なかったですよ。ともかく「簡単にかかる」っていうのが一番でね。《誰でも簡単に、そこそこいい音で聴ける》っていうのが一番大きかったですね。

●そういう視点を持ったことがありませんでしたがそれ、めちゃめちゃおもしろいですね。

――レコードだと音楽を聴くことを躊躇する人たちがいたんですよね。大変じゃないですか。針を落とすっていうのは。特に歳をとってきたりすると面倒。でもCDはそのハードルが下がって誰でも簡単にある程度良い音が聴けるようになっちゃのでCDで音楽を聴く人が急激に増えたんですよ。音楽業界が一番輝いてたときですね。

●大西さんにもそのときの貯金がね。

――もうないんですよ。CDバブルは短かったですね。

ずこ。そういえば万引ってレコード屋さんでもあるんですか?

――おっ、いやっ。万引はもう、すごいですよ。防犯装置もけっこう早く入れましたけど、それでもありますからね。レコード屋さんは店に立っていると、常にお客さんに気を配ってましたよ。常に警戒している。身体に染み込んでいるんです。お客さんと話ししながらでも店内の他のお客さんの動きには気を向けていますね。

お店やめて何がよかったかって、万引を気にしなくていいっていうことですよね。お客さんが一人入ってきたらそれだけでもうずっと気が抜けないんですから。

やっぱりそうなんですか。美しい日本のわたしとかいいますけど、日本人だからいい人たちばかりというわけではありませんね。残念ながら。捕まえたことと、警察沙汰とかありますか。

――いっぱい捕まえましたよ。格闘みたいになって殴られたこともありますからね。ほっとけば万引って毎日あるんですよね。なにも対策しなければ万引だらけです。

●なるほど・・・。残念です。

――それで、90年の終わりぐらいから徐々に売上に陰りが出てきまして。2002年にお店を閉めちゃうんですよ。なんでかっていうと、種類が増えすぎちゃったんですよ。発売点数が増えすぎた。それに録音って昔の名盤も残ってくるわけでしょう。だから1つのタイトルに対しての売上効率がどんどん落ちる。そうすると不良在庫が増える一方。ある程度の規模がないと発売点数に対応しきれなくなってきました。

本と同じでCDっていうのは売れなかったら戻せるんですか?

――いえ、基本買取ですね。正味仕入れの10パーセント以下ですが売れなかった商品を返品出来るっていうシステムだったんですけど、・・・・ロスが増える。1点で100枚売れるヒットばかりならいいですけど、ほとんどの商品は1枚売れるかどうかというものですから単純計算で10枚仕入れて9枚売れないと不良在庫を抱えることになるわけです。そういうリスクの中で新譜案内が来ても幅広く発注できないんですよね。限界を感じて閉めました。

メルマガを使ったネット通販への移行

で、通販へ。

――通販は98年から始めたんです。WINDOWS95の終わり頃です。98年にパソコンを買いまして、あ、これ、インターネットで通販が出来るかなっていうのが分かりまして、それではじめたんですよ。創生期でライバルもいなかったし、やればやるだけ伸びるっていうので、力を入れましたね。

広報の手段はなんでしょう。

――メルマガですよ。メルマガオンリー。

あー、グッディーズのメルマガ、ありましたね。

――メールマガジンで輸入盤の新譜情報を出して、注文をメールで受けて、入荷したら送る、集金する、そのサイクルです。クラシックの輸入盤を取り扱っている店はほとんどなかったですから。

70年代は輸入盤は主に輸入業者が扱っていて、それだと日本のメーカーは儲からないので面白くない。自分たちで輸入して卸そう、ということになったんですよね。早いし安いし。私の場合は個人営業でしたがIMS(ポリグラムの輸入部門)やNAXOSなど下井草時代から取引を始めていましたので、見た目は街のレコード屋でしたが在庫内容はかなり変わっていたと思います。

当時のウェブにはカート機能とかないし、全部メールでやり取りをして。支払いは基本着払いでしたね。

すごい。ネット通販の先駆けですね。ネットでカード払いとかが出来るようになるのもだまだ先ですよね。着払いとか私全く利用したことないんですけど、とりっぱぐれとかはなかったんでしょうか。

――ほとんどとりっぱぐれはなかったですね。店舗の万引のほうが怖い。

なるほど。

――2004年に大腸がんが見つかって手術をしたんで、その頃なにか新しい展開を考えたいなと思っていたんですが病気になっちゃったんで、その後は通販だけにしました。この通販も2011年、震災のときにやめるんですけれどね。メルマガも大変な手間ですし、売上も落ちてきましたしね。なので売上は現状9割が即売ですね。即売。即売は体が動く限りやるつもりでいます。

通販だけにしたころ、時間ができたんですが、読響から「会場販売やりませんか?」と声をかけてもらいましてね。業者が決まってない公演がありますから、と。じゃあ行こうか、と。その頃は月1回、池袋の定期演奏会でした。

そこから広がっていったんですよね。時間があるからコンサートを聴きに行くと、コンサート会場でCDを売っていないときがあるんですよね。「CDあるんだけどなー」って思ってたんですけど、あるとき会場の人にきいてみたら、業者は来たり来なかったりだ、と。じゃあ来ないときに私が売ってもいいですか、と言って許可してもらって。そうこうしてるうちにどんどん話が広がっていって、ここでもやってくれないか、あそこからきてくれないかと言われたりね。

ほおお、すばらしい行動力と営業力ですね。

――どこの会場でもだいたい業者が入っているんですけど、ギリギリになってドタキャンする業者もけっこうあったんですよね。なので、代理店の方も困って私に声をかけてくれたりとかね。そういう流れでどんどんやるところが増えていきましたね。輸入盤を扱っていない業者もあったりするので。

いまどれぐらい即売に行ってますか。

――年間300公演以上ですね。平日は少ないですけど、週末なんかは同時に3、4箇所で売ってたりします。手伝ってくれる方も何人か確保していますので。あとはダブルヘッダーもありますよね。平日のランチタイムコンサートをやった後に夜にもコンサート、みたいなね。

●なるほどいや面白いお話でしたありがとうございました。

=後半は以下からお読み下さい=

https://mcsya.org/interview-with-takashi-onishi-goodies-2/