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業界人突撃インタビュー第9弾 梅岡俊彦氏(梅岡楽器サービス) 【前半】

梅岡楽器サービスは、チェンバロおよびフォルテピアノを、おもにコンサート会場に提供しています。日本の、そして世界の古楽のトップシーンを牽引している演奏家たちからも長らく厚い信頼を受け、指名を受け続けています。古楽に関わる人なら知らぬものはない、と言ってよろしいかと思います。

梅岡楽器サービスには、西の神戸と東の東京にスタジオがあります。最初知った時はどうなってんのかな?と思ってましたが、全部お一人で回しておられると知った時は驚きました。めちゃくちゃタフなんですよ。前日夜に大阪でコンサート→翌日昼に東京でコンサート、とかいうのでもOK。基本ご自身お一人だけで楽器の運搬、調律、運転もしてしまうという大車輪ぶりであります。

ご本人的には「偏屈でめんどくさい親父」、「サービス精神は旺盛ではなく」、「仕事は勝手ながら選ばせて頂いています、やすやすとはお受けしません」、とのことですが、叱られず見捨てられず長くご一緒させていただいているのは感謝しております。昨年は酒井敦さんとクリストフ・ルセとのツアー全公演で楽器をご提供いただきました。

むしろ振り返ってみますと、いつも舞台袖でギャハギャハと都合何時間ぐらい笑っていたかな、と思いますね。はたから見たら奇っ怪なおっさん二人でしょう。台袖でのお話はいつも大変興味深く、ぜひこのシリーズにご登場願いたいなと思ったのでした。

「考えとくわ」「やめとこか」みたいな反応も恐れておりましたが、いいですよと言っていただけまして、ここに掲載がかなうこととなったのであります。感謝を申し上げたいと思います。それでは一風変わった調律師、運び屋の“梅岡・ザ・頑固親父”インタビューをどうぞ。

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●今日は遠いところまでおこしいただきまして、ありがとうございます(都内多摩地区某所某日某刻)。さっそくですが、梅岡さんがこの仕事をされてどれぐらい経ちますでしょうか。

――35年経ちますね。

●おおう。長い。まずはお若かった頃の話から・・・クラシック音楽や古楽と仲良くなったきっかけについて教えて下さい。

――親が音楽はやっていたわけではないのですが、クラシック音楽は小学生の時から好きでオープンリールで聴いてました。家にあったんですよ。親戚がオープンリールでクラシックいっぱいもってましてね。もちろんレコードもですけど。普通にベートーヴェンとかチャイコフスキーとか、いわゆるまともなクラシック音楽を聴いてました。そのころはバロックとかそういう意識はありませんでしたね。

中学になったら深夜放送でポップスとか聴きました。ロックもジャズも。70年代初頭の話なんですけど、60年代のサイケデリック・ロックが大好きでしてね。

●デヴィッド・ボウイとかですか。

――もうちょっと古くて、グレイトフル・デッドとか。

●えー・・・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコとか。

――そうそう。そういう意味では「ちょっと前のとんがったもの」が好きだったというのが、今につながっているのかなと。

●なるほどうまい。

――実家が戦前の焼け残った家で、蓄音機もあったんですよ。小さい頃はそれが好きでね。いじったりしてましたね。音楽が好きで、機械も好きで。みたいなね。

●実際に直したりとかされたんですか。

――んー・・・・とりあえずバラしてはみましたよね。

●んで一生もとに戻らない、みたいな。

――(笑)。高校時代からはロック系、アングラ系の自主企画に参加してました。バンドの企画とかライブハウスとか。京大に西部講堂がありますでしょう。あすこでのイベントに関わってました。

●そうだったのですか。いや、お聞きしてみるもんですね。人には歴史ありです。

――アングラ、アウトサイド、マイナーなところを行ってましたね。「ダンスリールネサンス合奏団」っていうグループがあって、ルネサンス音楽を古楽器でっていうのを70年代からやってたんですよね。坂本龍一とセッション(The End of Asia)して、ばっと有名になったんですけど、彼らが一番最初にレコードに出したのは岡林信康さんも出していたフォークのアングラレーベルからだったんですよ。そういうのをアングラ時代に聴いてたりしましたね。

その後、大阪NHKでドラマの大道具のバイトをやったんです。高校出てすぐ。ミヤコ蝶々とかが出てましてね。3回リハやって、本番1回。NHKらしい念入りな撮影でしたが結構長回しで面白かったです。夜のシリーズのドラマでしたね。

●現場の拘束時間は長かったんですか。

――徹夜も多かったですよ。その分バイト代もすごかったですけど。最初貰った時はびっくりしましたね。こんなにもらえるの、みたいな。これは数年やりましたね。そこで現場の空気を知ることができました。アングラからは対極にあるようなところですけど、両方を知ることができて面白かったです。

調律師になる

で、調律師になるんです。知り合いのお兄さんが調律師をされてたんですよ。兵庫に自分の小さい工房を持っていて。そこで徒弟みたいにして入ったんですよね。「入れて下さい」「そうか、やってみるか」みたいなね。自由な雰囲気というか、自分で好きなようにやりなさい、っていう感じのところでした。

●仕事は盗め、的な感じですね。

――大師匠さん、つまり師匠の師匠が、戦前からピアノを作ってたメーカーの職人さんやったんですよ。芦屋にピアノ工房があってね。我流みたいなものだと思うんですけど。そこの職人さんとかがまわりにいたので、戦前の話とかきけたんですよ。

今はスタインウェイとヤマハしかないけど、昔は「五大メーカー」っていうのがあって、ベヒシュタイン、イバッハ、ブリュートナー、スタインウェイ、ベーゼンドルファーやと。で、いまより面白いピアノがいっぱいあった、とかいろいろ聞いてたんですよ。ほんで実際に古いピアノを直したりね。それは面白かったですよ。

自己流で足踏みのリードオルガンの修理もやりましたね。全国の教会に何千台かあってね。あれはね、ふいごが20年ぐらいで壊れるんですよ。ラバークロスって言って、ゴムの貼ってある布ですが、それが固くなって破れて空気がもれる。踏んでも踏んでも音がでない。全国に壊れたのがあって、なかには直したいっていう人がいたんで、「それ、僕がやります」って言ってやったんですよ。やってみたら東京からも注文が来るようになった。これ、食えるだろうけど、一生やるんかなと思って。面白くはないなと。

●お金になることが面白いこととは限りませんもんね。

――で、たまたま近くにチェンバロの製作者がいらっしゃった。それと鈴木雅明さんがいらっしゃった。鈴木さんはちょうど帰国されて演奏活動を始められた頃だったので、手伝うことになったんですよ。雅明さんもまだ神戸が主力で、チェンバロも神戸に置いておられたんです。

そもそも私の最初のチェンバロとの出会いっていうのは、中学時代なんですよ。年に一回だけ学校に有名な演奏家を呼ぶ、それを聴くっていうのがあって、そこに小林道夫さんがこられたんですよね。何を弾かれたかは憶えてないですけどね。

●学校のコンサート、ありましたね。私もたしか井上道義さんと京響だったかな、そういうコンサートを小学生の時体育館だか講堂だかで聴きましたね。

――で、だんだんチェンバロをやりたくなって、5年ぐらい勤めた時に「独立させてください」と言ったんですよ。なにするんやと言われて「チェンバロ」って言って。でもチェンバロの仕事って、関西にはなくてね。それじゃ食えないんで、最初は一生懸命ピアノを調律しながら、だんだんとチェンバロをやるようになりましたね。

当時は勉強しようにもね、製作者はいらっしゃったけど、なかなかない。たまに東京からくる演奏家のコンサートに潜り込んでね、見させてもらいました。なんでも手伝いしますからいさせてください、みたいなね。そこで勉強したり盗んだり。

●東京のレベルっていうのは関西とは違いましたか。

――もちろん、本場のほんもんはちゃうなー、みたいに思ってましたね。大阪に音楽ホールが出来始めた頃の話ですよ。ザ・シンフォニーホールができて、いずみホールも90年にできて、いっぱい東京から演奏家が来ましたよね。そういうところに入れてもらって見てましたね。

●成功には人知れぬ努力が必要ですね。

――いまね、同じこと誰もやらんのかなと思うんですけど、誰も来ないよね。不思議でしゃーないけどね。チェンバロのコンサートに学生誰も来ないしね。ルセのことだって知らないんじゃないのかな。意欲を感じないからもうええわ、みたいな。もともと親切やと思われてないんかも知れませんけど。

●え?タラン・なんとか?って何ですか?頭がタランの?みたいな。・・・滑ってますねすいません。

――当時みなさんから「運んで調律して」って言われてたんです。最初からセットでね。むしろ引っ越し屋みたいな感じでね。楽器を会場に運んでくれさえすれば調律は自分でやるから、みたいなのとかもありましたし。

段々仕事も増えてきたんですけどやっぱり東京に行かないと、という気持ちは最初からありましたから、東京の演奏家の方に「交通費はいらないんで、東京で僕の楽器を使いたくなったら言って下さい、行きますから」って言ってました。

あと兵庫で教会用の電気オルガンを作っている人から声をかけてもらいましてね。材料を関東から入れているんやけど、それを運んでくれないかっていうお話があって、もう「東京行けるんなら原価でいきます」って実費だけで行って、そのついでにコンサート行ったり工房を訪ねたりして。東京行く機会は無理矢理に作ってましたね。

●素晴らしい熱意と行動力。そういうのが絶対あとあと生きてきますね。

――僕ね、わりと早くから少しずつ楽器を集めだしたんですよね。92年に、こないだルセが弾いてた楽器を買って、あれが評判とったんで、東京からもお声がかるようになって。だから喜んで行ってました。

関東の工房の方はみなさん仲良いかなと思ってたんですけど、どうもそうじゃなくって、気がついたらあっちこっち出入りしてるのは関東の方より自分かも、みたいなことになってましたね。よそもんだから良かったのかもしれないです。遠慮なく「こんちわー」言うて知らんふりして行けたし。

阪神淡路大震災をきっかけに東京にも拠点を作る

●・・・実におもしろい。

――そうこうしてたら阪神大震災があって、しばらく関西ではコンサートがないやろうと。

工房が全壊したんです。楽器は瓦礫から掘り起こしたら出てきたんですけどね。ルセが弾いたやつもそうですね。

●そうでしたか!震災の時の傷が楽器のどっかに残っているっていう話を前に伺ったことありますけど、あの楽器だったとは知りませんでした。傷また今度見せて下さい。

――がれきの隙間にちょうどうまいこと入ったから助かったんですよ。あれ何人かで担いで引っ張り出したんですよね。

●ご自宅も被災されたんでしたっけ。

――うちのマンションは大丈夫やったんですよ。でも火事は自宅のすぐ近くまできました。消防士がこない火事ほど怖いものはないね。向こうの方からずーっとくるわけですから。ベランダに火の粉が来るところまで来た。やっと消防車が来て助かったんですよね。確かあんときは学校のプールの水使ったんだったと思いますよ。

工房はね、庭付きの一軒家を3万で借りてたんですよ。一部雨漏りするから住めないけど、倉庫だったらいけるよっていって。広いから借りてました。

そのころはSPレコードも集めてて、ある時3000枚、もらったのがあったんですけど、それを2階においてたんですよ。SPってご存知のように重いから、普通に積むと床がぬけるんですよ。しゃーないから8畳に部屋にまんべんなくそーっと置いてたんですよ。それのおかげで、建物がうまいぐあいに3つに割れてね、それで楽器も助かったんです。ただそのSPレコードはパーですよ。解体のときにはショベルカーでガーッと。大家さんにそのとき「なんや黒いもんがいっぱい出てくんな。ええんか」って言われましたね。

●黒いもん・・・・。残念ですね。

――まあでもコレクター心理としては、自分が買ったものには愛着があるけど、もらったものにはそこまで興味がわかないというか。あらかじめ気になるやつは抜いて別で保管してましたしね。それは大丈夫だったんで。クラシックのちゃんとしたコレクションやったんですけどね。

●ヨダレダラダラ垂らした人もいたでしょうね・・・・。うわーメンゲルベルク、うあーニキシュ、みたいな。それで東京行きを決意されたと。

――すぐに東京いこうと思って、数カ月後には東京にいましたね。地震は1月でしたけど、夏にはもういた。多摩センターにアパート借りて楽器を置いて、移りましたと連絡して。

●多摩センターにされた理由はなんでしょう。ピューロランドがあったから、ではおそらくないと想像しますが。

――鈴木雅明さんの関係で、調布には土地勘があったんですよね。それでまあ京王線かなっていう気持ちもあったんです。あと神戸の人間なんで山が見えんといややし、だから都心はちょっと、みたいなんがあって、生田とか多摩あたりどうかな、青梅はさすがに遠いな、とか思って。

まあともかく最初は調布どうかなと思って見てみたら高い。稲城、まだ高い、言うているうち最終的に多摩センターに安いとこが見つかったんです。楽器が出し入れのしやすい広いところ、っていうので借りましたね。

●ありがちな話ですね。

――でもいかんせん遠すぎた。渋滞がまだ当時は激しくて、都心まで3時間かかったんですよ。高速も動かなかったし。どんだけ裏道を知ってるかが勝負、みたいなとこありましたね。環八にも踏切ありましたし。夜帰るときも2時間かかってましたからね。行き帰りで5時間ですよ。

それと電車に乗ったらラッシュが半端じゃなかったですねあのころは。それで音を上げて、今の目白に。家賃は倍になったけど、都心まで30分なんで、4時間余分に寝てられるっていうね。多摩4年、いまんところに20年ぐらいかな。

●なるほど昔のラッシュはすごかったと他の方からも聞いたことがあります。私も京都なんで山が見えないといややって言って東京の隅っこにすんでますが、たしかに都心は遠いです。

で、目白へ。今の物件はどうやってみつけたんですか。

――紹介でしたね。ご存知のようにあそこは線路沿いなんで、電車が通ったらうるさくて会話もできなかったんですよ。今はもう全部窓ふさいじゃったからなんとかなってんだけどね。もう長く住んでいるんで、大家さんも出ていかんといてー、って。

●そんなに音は気にならないですけど。

――いや昔はもうひどかった。

●それで今は東京と神戸と、2箇所拠点をお持ちですね。

――西と東に両方にしてるのはね、片っぽがだめになってもやっていけるっていう、リスク分散ですよね。地震は2回経験してますしね。できるだけリスクは分散させないとね。

腰は何度も壊してますよ

●なるほど。重い楽器を上げ下げして、腰を痛めたりとか、身体を痛めたりとかはないんですか。

――腰は何度も痛めてますよ。だから鍼治療でね。もう何年も同じ先生のところに通ってます。いっぺん先生が倒れられたことがあって、真っ青になりまたね。歳取ってくると身体のメンテが有料になってくるんですよ。

●身体を鍛える、ということはされてないんですか。

――特に鍛えることはしてませんね。

●引っ越し屋さんといっしょですか。現場で筋肉がつくみたいな。骨格もがっしりされてそうですし。

――スポーツはそんなやってなかったですけどね。

●あとはいろんな道具を駆使して運ぶ。なるべく楽に運べるように、ですね。搬入出の時はいろんな小物が出てくるので拝見していて面白いですね。

――階段使って楽器あげないといけないホールとかもありますからね。機械使ってもいいけど、うちは人力です。ちっちゃい木の台やらなんやら、ああいうのは全部自分で考えて自分で作りましたよ。フォルテピアノの運送のテクニックについては輸出したいぐらいですね。あれヨーロッパ人にとっては驚異みたいですね。ヨーロッパにはこんなんないって言われます。欲しいって言われたこともありますね。

●仕事上でのトラブルとかあったら教えて下さい。言ってもええかなっていうやつ。

――そうね・・・。

=後半は以下からお読みください=

https://mcsya.org/interview-with-toshihiko-umeoka-2/