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どうしてピアニストは暗譜で演奏しなければならないのか

カルロス・クライバーの《こうもり》序曲の映像をみたことがありますか。ミュンヘンの。指揮台の上にスコアが置いてあって、その上にバラの花が置いてあるっていうやつ。置いてるけど楽譜は見てないっていうやつ。暗譜してるっていうやつ。一歩間違えたらすごい嫌味なやつ。

でもあれ、あこがれたわー。おっしゃれーな感じがしたわー。同じく得意にしたR.シュトラウス《バラの騎士》じゃなくてJ.シュトラウスII《こうもり》でバラが一輪おいてあるんすよね。バラを置く作品、間違えてるんちゃうの。それとも《バラ》の方でもやったの。クライバーはテニスウェアかなんか着てコンサートかオペラに出てきたこともあるってどっかで読んだような気もするぞ。クライバーのジョークはぶっ飛んでいる。

そんな話はどうでもよくて、どうしてピアニストは(←ピアニストの代わりになんであれすべての楽器を当てはめていただいてOK)暗譜で演奏するのかというお話なんですけど。クララ・シューマンやらリストやらが腕自慢かなんかのためやらかしたせいで「暗譜で弾くのがすげえ」みたいなのがやがて「暗譜で弾くのが普通」となって定着してしまったんですけど、はっきり言って暗譜で弾く必要はまったくないんですよね。昔は暗譜で弾いてなかった。ショパンは生徒が暗譜で弾こうとすると怒ったみたいな話もありますよね。

ではなぜみな暗譜で弾くのか。「その方が自由になるから」というご意見もございますが、それはそう言う人の勝手な気持ちであって、暗譜が怖くてしょうがない人、不安で押しつぶされそうな人は見たって全然オッケーなんですよね。楽譜を見て歌えないオペラ歌手にはプロンプターというきっかけと言葉を教えてくれる人がついているんだぜ・・・。

たいへん厄介なことに楽譜を見て弾くとそれだけで主催者に怒りをぶつけてお帰りになるお客様がおられるのはご存じでしょうか。「勉強不足も甚だしい!!」「こんな下手くそな演奏を聞かせられてお金をドブに捨てた!!」と言われたことが私もございます。それだけで怒るとか心が狭いのではと残念な気持ちになったものですが、サイレントマジョリティという言葉がございまして、そうやって怒りの表明をされないまでも、同じことを思っている方も多いのかもしれません。

暗譜はするものという偏見がいまなお続いており、その延長線上で「暗譜で弾かない=準備不足」と自動的に見えるようなのです。そして「準備不足だからこの演奏は下手に違いない」「やっぱり下手だ」とそのように思考が進んで行くようなのです。

しかし過去の常識はいまの非常識。そして世の中はマイノリティにもスポットが当てられる時代であります。楽譜を見て演奏するというのは現状マイノリティかもしれないが、いまこそ楽譜を見て演奏するという個性が全力で発揮されてよいと思います。これこそSDGsや!!(よくわからずに使っている)iPadだってあるし、2画面スマホも今後いろいろ出てくる可能性があるから(2画面スマホは見開きで漫画も読めるんやで)、スマホもコンサートで使えるようになるかもね!小さすぎるけどな!

晩年のリヒテルは楽譜を見ていた、ポゴレリチは見て弾く、タローはどうや。しかしいわゆる大物になったら楽譜をみて良いというのではなく、若い頃から楽譜を見て演奏する行為が認められるべきだと私は確信しております。入学試験やコンクールにおいても暗譜で弾くっていうのは時代遅れで、もしそういう一文が入っているのであれば消すべきではないですか。だいたいピアニストは聴衆がなんと言おうが曲は基本確実に勉強していて憶えてますし、楽譜を見ても見なくても弾ける人は弾けますし弾けない人は弾けません。

みんなガンガン楽譜見て弾こうぜ!!なに?先生が怒る?先生の言うことなんかだまって聞いてたらだめよ。